王子の狐、
広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の絵の不思議


---この絵自体が不思議な絵なのです---

< 広重の絵はもしかして・・・ >

youtube動画


尚信の「王子狐火」絵と広重の「王子装束ゑの木大晦日の狐火」絵とのニ枚の絵をくらべて見てください。
■ はじめのは王子神社(もと若一王子)縁起絵巻の中の王子の狐集合の場面を描いた狩野尚信の絵(部分)[寛永18年(1641)]です。
■ もう一枚は、尚信の絵から200年後の広重の最高傑作と評される「王子装束ゑの木大晦日の狐火」(全部)[安政4年(1857)]です。
ニ枚の絵はこのままでは全く違った絵に見えます。

尚信「王子の狐火」
↑ 尚信の王子の狐部分。このときの樹は松として描かれ、縁起の中のこの絵の説明 でも「松」となっている。
のちに大榎として語られるようになった樹について大田南畝は「ひともと草」[文化三年](1806)] に、

「 むかしは装束松といひしも、今はいつしか榎にかはれり 」
と伝えている。


↓ 広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」(1857)(元の絵)
広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」



しかし、
尚信の絵は横広がりの構図なので広重のもあえて横3倍に引き伸ばして比較しやすくしてみました。↓↓↓
すると、二枚の絵がおどろくほど類似しているのです。

下の広重の絵は上の尚信の絵よりも200年たっている。それでも広重の絵の中の松(大えの木の後の緑の木)
は同じままの樹形。
二匹の狐は、広重の絵の左見返り狐と右見返り狐の二匹を重ねると同じなのです。

尚信の絵の松の木の右側枝木下の二匹の狐と全く同じ枝木の下の位置に広重も左見返り狐と右見返り狐の
二匹を画いて あることに注目してください。
樹の右側の同じ位置に二匹が描かれてあることは、この両絵を偶然と見ることのほうが無理と言えるでしょう。


↓ 横に三倍
広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」

ちなみに、稚拙な合成だがニ匹を重ねてみました。尚信の絵と見比べてください。

きつね重ね 尚信見返りきつね
これを見ると、広重が尚信の絵を下敷きにしたことが誰の眼にも明らかで、これは新たな発見です。(2008.1.10。M・T-小太郎記)

はじめに
これまで、この広重の王子狐火の絵の解説はいくつも出されました。
けれども十分な説明にはほど遠いものでした。
なぜなら、

「狐が榎木に集った」(←クリック)

「これから王子稲荷神社へ装束を正装して向かう場面の絵である」(←クリック)

「むこうの森が王子稲荷社である」(←クリック)

「後方にある王子稲荷に参上した」という一様の説明
に対し、では、その森へ向かうのではなく
その森から繰り出して来る狐たちが描かれてあるのはなぜなのか、
という説明をしたものはありませんでした。
これから述べるここでは、自分なりの率直な疑問や感動を書かせていただきました。2008.1.10




< 広重の「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の不思議 >



王子の狐火の尚信の絵と広重の絵の比較をします。
これまで、この広重の絵は 「江戸名所図会」(←クリック)を下敷きにしたものと言われてきました。
江戸名所図会の松と榎木は広重の下敷きにはなっています。でも、江戸名所図会での稲荷社の位置は左方です。
広重は尚信の絵の右手の緑地を稲荷の森に変えているのがわかります。
そして、尚信の狐をそっくり、しかも全く同じ場所に置いたのです。


とは言っても、広重は尚信の構図をそっくり踏襲しただけではありません。

広重のこの絵の鮮烈さは、世の人々の話題にはかまわずに、
狐の進行を逆にしてしまったところにあるかもしれません。


王子で狐の集合場所から見える近くの小山に相当するのはといえば言わずとも王子稲荷の丘森です。
その森から繰り出してくる狐の集団を描いたのです。
この絵では判りにくいのですが、遠くの狐たちは皆


こちらを向いて集って来る(←クリック)

のが描かれてあるのが精巧な版画では判ります。
おびただしい数の狐たちが次から次へと繰り出してくる様子が描かれています。

集団でせまって来る恐ろしいほどのエネルギーを感じる、と言ったらいいでしょうか。

そもそも、ここは狐の「装束場」と呼ばれて、その時代の話として、


あちこちから集合した狐たちが、正装に改めてこれから王子稲荷に参拝に向かう、
という場面の絵と理解されてきたはずです。


これまで絵を見てきた人は皆そのようにこの絵を解説し、見る側もそう思って見てきました。


これから威儀を正して稲荷に向かうはずの狐が、素のままに稲荷にすでに入っていたのだ としたら、諸方から集合して稲荷に向かうという神聖な話自体成り立たないのです。

だれが考えてもそんなことはわかります。
それに、一箇所から繰り出すのは諸方から集るという意味にはならないはずです。


広重が描いたのはまさしく稲荷から出てくる情景なのだということを今ここに指摘しなければなりません。

広重が無頓着に描いたはずは無く、尋常でない作画であるだけに
そこに広重最晩年のメッセージがもしや有るのではないかとさえ思いたくなります。
これは私のロマンチックな勘ぐりにすぎないのでしょうか。


時期はさかのぼりますが、 王子稲荷にふりかかった社会的出来事--

-資料@--
-資料A--.....王子稲荷が東国三十三か国稲荷の総司と伝承していた確証記録文書。

--
を多少とも知る者にとっては、
こうしたことに
広重が意図をもってこの絵を著したのではないだろうか、と関心が湧くのを禁じ得ません。

尚信の狐火や「江戸名所図会」での狐たちは漫然と集まっていました。
そこここに何気なく寄って来ているのです。

尚信の狐火(←クリック)

でもこの絵では全くちがっていて、世間の見方と全く逆行して稲荷社から「装束場」
めがけて繰り出しているきわめて集団的かつ意図的な狐として描かれているように見えます。


それともう一つ。榎木に集った狐たちが
円陣をなしている ことです。なにか相談でもしているかのように見えます。
とくにこの時代は庶民の娯楽に制限が加えられた天保の改革の後でした。
そういうことが、文化人広重のこの絵の出現にかかわっているかも、と想像がふくらんでしまいます。

さて、
じつは本当のところ、尚信の描いた狐集合絵のもっと左手の方に王子稲荷社が描かれてあります。

尚信「若一王子縁起部分・王子稲荷と狐火」

いまここで、そのことを伏せて話をすすめてきたのです。
それは、広重のこの絵を見るほとんどすべての人が奥の丘森を王子稲荷と想像するからです。(←クリック)

尚信の絵の上では右手の小山のようなのは、じつはそれ以上先の無い十本ほどの木立緑地です。
広重はそこを丘森に仕立ててしまいました。
この地から見張らせる山といえば筑波山でしょう。
筑波山ならこのように木々の様子があざやかな森には見えません。
皆が王子稲荷と想像するのはそのためです。

ここで一つ、その森は稲荷の森では無い、とします。
諸方から集まって来てこれからここには描かれていない左方向の稲荷へ向かうのだとします。
拡大画面でご覧頂いておわかりのように、


それでは、諸方の狐がなぜ人家の間をあえてすり抜けて集まって来るのか

その不自然さばかりを感じてしまうのです。

そういうわけで、あくまで、ここでは、だれもが思うように奥の森が稲荷の森であるとした場合
の自分なりの絵の見方を考えたものです。


小太郎の「広重の文芸開放画」説

[ 私の考え ]

徳川幕府による行政上の干渉により、王子稲荷自身のみに閉ざされ閉じ込められてしまった中世からの

伝承であるところの「東国三十三ケ国からの狐集合」伝説を、広重は文芸開放の意図から、王子稲 荷の

森から東国三十三ケ国の狐伝承の開放の意味でこの絵を作った。

これを版元は、本来の王子稲荷伝承である「東国三十三ケ国からの狐集合」ではなくて、時の法律の許

される範囲で当時の箱根以東の「関東」の概念に置き換えて「関八州からの狐集合」の絵として、広重の

作画意味とは無関係に売り出した。

当時の江戸時代の人々は、それを勝手に「これから稲荷神社に向かう絵」と解釈し、それが今日まで誠

しとやかに伝わってきた。


・・・こういう名画のナゾは最後までナゾでありつづけるものなのかも知れません。

「いやいや、そんなことどうでもいいよ」
と当の広重さんは笑ってとりあってくれないのかもしれませんがね。.....

平成20年1月10日発表 記・小太郎 = KotKot


(クリック→) 王子の狐物語(狐行列) 正しい王子の歴史のために

「王子の狐物語・正しい王子の歴史のために」まとめ編
王子の狐の歴史 ・ 東国三十三ケ国の狐が王子に集合


王子白狐衆の動画・王子狐の里

王子稲荷神社 | 東国三十三国稲荷総司伝承



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