いまここで、そのことを伏せて話をすすめてきたのです。
それは、広重のこの絵を見るほとんどすべての人が奥の丘森を王子稲荷と想像するからです。(←クリック)
尚信の絵の上では右手の小山のようなのは、じつはそれ以上先の無い十本ほどの木立緑地です。
広重はそこを丘森に仕立ててしまいました。
この地から見張らせる山といえば筑波山でしょう。
筑波山ならこのように木々の様子があざやかな森には見えません。
皆が王子稲荷と想像するのはそのためです。
ここで一つ、その森は稲荷の森では無い、とします。
諸方から集まって来てこれからここには描かれていない左方向の稲荷へ向かうのだとします。
拡大画面でご覧頂いておわかりのように、
それでは、諸方の狐がなぜ人家の間をあえてすり抜けて集まって来るのか
その不自然さばかりを感じてしまうのです。
そういうわけで、あくまで、ここでは、だれもが思うように奥の森が稲荷の森であるとした場合
の自分なりの絵の見方を考えたものです。
小太郎の「広重の文芸開放画」説
[ 私の考え ]
徳川幕府による行政上の干渉により、王子稲荷自身のみに閉ざされ閉じ込められてしまった中世からの
伝承であるところの「東国三十三ケ国からの狐集合」伝説を、広重は文芸開放の意図から、王子稲
荷の 森から東国三十三ケ国の狐伝承の開放の意味でこの絵を作った。
これを版元は、本来の王子稲荷伝承である「東国三十三ケ国からの狐集合」ではなくて、時の法律の許
される範囲で当時の箱根以東の「関東」の概念に置き換えて「関八州からの狐集合」の絵として、広重の
作画意味とは無関係に売り出した。
当時の江戸時代の人々は、それを勝手に「これから稲荷神社に向かう絵」と解釈し、それが今日まで誠
しとやかに伝わってきた。
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・・・こういう名画のナゾは最後までナゾでありつづけるものなのかも知れません。
「いやいや、そんなことどうでもいいよ」、と当の広重さんは笑ってとりあってくれないのかもしれませんがね。.....
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平成20年1月10日発表 記・小太郎 = KotKot