王子の狐の歴史

東国三十三ケ国の狐が王子に集合


東京都北区、王子・狐の行列、王子・狐の夕すず美、の背景となっている民話の王子の狐の歴史をひも解くと、王子の狐火が東国三十三ケ国から集まったという伝承がかつてあったということが王子稲荷神社関連文書資料により明らかになってきた。

江戸時代初期、寛永年間に作られた 『若一(にゃくいち)王子縁起』という王子神社の縁起絵巻 を東京都北区が研究した成果の中から、王子稲荷神社にまつわる狐の民話の古い歴史が浮き上がってきたのである。

王子に伝承されてきた狐の民話の歴史について現今では、王子・狐の行列で多く語られる関八州から狐火が集まる、との話が 王子の狐の民話の一般のようになってしまっているのだが、関八州話の方は実は1787年から1793年にかけて の寛政の改革期以降に広まった比較的新しい話であり、それが 王子の狐の歴史
(先頭にもどる) のすべてではなかった、 ということが、記録の上で明らかとなったのである。
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・1 王子と狐との記載の初見
・2 三十三ケ国の狐集合描写
・3 寛政改革による民話の変節
・4 現代までの王子の狐民話と王子稲荷神社の社歴掲示
・5 古い民話の確証
・6 出典
・7 関連項目
・8 参考外部リンク
【更新・・・2011.2.24】
[ 王子と狐との記載の初見 ]
王子という名称と狐とが一緒に登場する今現在最も古い資料は、 徳川家光の命により作られた『若一王子縁起』絵巻。

この絵巻の原本は存在しないが、精巧な模本が財団法人紙の博物館にある。
その奥書によれば作成作業は 堀田正盛(加賀守)のもとに春日局(かすがのつぼね)の甥で斉藤三友(摂津守)をもって遂行されたとある。

また文は林道春がかかわり、絵は狩野尚信が描いた(『古画備考』による)ことが知られる。

絵巻の完成は寛永十八年(1641)だった。
[ 三十三ケ国の狐集合描写 ]
『若一王子縁起』絵巻は、王子神社についてのものだが、 すぐそばの王子稲荷神社も別当寺金輪寺の持ちであったせいで、 下巻にその社のたたずまいとその前道筋に集まり来たる諸方の命婦(狐)の絵がある。
[註、命婦(みょうぶ)とは稲荷狐の異名]

そこに下札があって狐の集合が説明されている。
狐描写の模様

稲荷社前の道筋のあちこちに狐火を燈した複数の狐と松の木の下にも二匹の狐の絵があって、 そして「諸方の命婦、此の社へ集まりきたる」(『若一王子縁起』本文から引用)、とある。
下札には解説で「毎年十二月晦日の夜、関東三十三ケ国の狐、稲荷の社へ火を燈し来る図なり、 この松は同夜狐集まりて装束すと言伝ふ」、とある。


王子の狐火・・・『若一王子縁起』狩野尚信絵(寛永十八年、1641)、 王子に狐集合の場面(部分)
王子に狐集合

王子に狐集合(部分)
狩野尚信絵
広重の絵より200年も前に描かれた王子の狐の絵です。
この当時は榎木ではなく松の木でした。

補注..... なお、大田南畝は『ひともと草』に「 むかしは装束松といひしも、 今はいつしか榎にかはれり 」と書いている。

[ 寛政改革による民話の変節 ]
『若一王子縁起』という絵巻とそこに付けられてある狐火のことについて、金輪寺はどう関わってきていたのか、 それを明示する資料が北区教育委員会の研究本になって公開されてあるので解説する。
東京都北区教育委員会刊 『若一王子縁起』絵巻 「別冊解説編」付き。

幕府が問題としたこと

『若一王子縁起』より150年経った寛政3年(1791)になって王子稲荷社が実際に諸国三十三ケ国の稲荷社の総社 であったかどうかの社格の是非を幕府が問題にした。

寺社奉行松平輝和が老中松平定信に進達した 「王子稲荷額文字之儀ニ付、金輪寺相糾候申上候書付」で始まる文書(以下、「進達文書」と記す)にその 内容が示されてある。



狐火民話の時代性

稲荷社の格式の是非のことは、これは寛政改革の為政面のことであって、もとよりこの王子の狐民話は、 寛政をはるかにさかのぼる江戸初期の寛永年にはすでに流布していた。

そもそも狐火の絵は、この絵巻を彩るためだけに描かれたという性質のものではなく、 王子に狐火が出るという話が当時広く流布していた様子を描いたものだった。

『若一王子縁起』下札に、「御徒歩目付・御小人目付、狐火為御見分」、と記されてあるにより、 縁起を作るに先んじて、寛政期よりも150年前の寛永期の
幕府の役人が王子の狐火の調査に来たという事実がわかる。

寛永期に狐火の調査に来たというのは、そのときまでにすでに王子に流布していたということの証し
であって 狐民話がどこまで古い話だったのかとその古さが思われる。
徳川時代をはるかに超えておそらく金輪寺が「三十三ケ国」という東国地域認識を持ったその時代にまでさかのぼれるのではないか。




幕府による証拠物の没収

王子稲荷社は三十三ケ国伝承にまつわる額や幟(のぼり)などを没収され処罰を受けた(「解説編」)。


[ 現代までの王子の狐民話と王子稲荷神社の社歴掲示 ]
・ これ以降、世上、王子の狐民話はそれまでの壮大な物語から小さな関八州の物語にと作り変えられ て現在にいたり、古い王子の狐火の民話は人々の記憶から失われた。

ほとんど知られなくなってきたことだが、かつて王子稲荷社の別当 金輪寺は、200石という格式をもっていた。これは、北条氏そして 徳川氏へと受け継がれた禄高で、当時の江戸の並み居る寺社の中では破格の格式を得て将軍家から厚遇をうけていたものだ。 まことに、壮大な物語を持つにふさわしい王子稲荷社であったから、この変節は大変な痛手となったろうことが思いやられる。

・ ただし、当の王子稲荷社自身は門石に

「 康平年中、源頼義、奥州追討の砌(みぎ)り、深く当社を信仰し、
関東稲荷惣司と崇む 」

と刻み、往古と変わらぬ 社歴 を今に伝えている。

(『練馬区小史』1987年 練馬区公式ホームページ)によれば 
『 (豊島) 武常は秩父を出て、早くから利根川や荒川河口の周辺を開発し、豊島・葛西地方にまたがる荘園を領しました。したがってその子孫は在名によりそれぞれ豊島氏や葛西氏を名のったのです。  豊島氏の始祖となった武常の長男近義(ちかよし)は豊島太郎と称し、八幡太郎(はちまんたろう)源義家に仕えた人物で知られ、義家奥羽東征(とうせい)の途次(とじ)、近義(ちかよし)の居館に滞留して具足(ぐそく)および紀州熊野神社の神幣(しんべい)を与えたといいます。のちに近義(ちかよし)がその恩に応えて、これらを埋めて塚を築き、八幡太郎(はちまんたろう)義家・加茂二郎義綱(よしつな)・新羅三郎(しんらさぶろう)義光の御影(みえい)をつくり平塚明神として奉祀した伝えがあります。 』 という。
王子稲荷神社での源義家の父頼義の「関東稲荷惣司」との口上は豊島氏とのこうした主従関係に裏打ちされてのものとみることができる。

(註・ここに掲げられてある「関東」文言は平安時代の関東概念で、当時は「東国」もさす地域概念であったとされている。)


[ 古い民話の確証 ]
王子稲荷の社歴にある「関東」についての解釈は多々出来るが、王子稲荷はこれを東国三十三ケ国との認識だったことが 「進達文書」の中にある次の文言により確証された。

「 東国惣司ト称シ候 」
とうごく そうつかさ と しょうしそうろう 

・すなわち、王子稲荷が自社について称していたことを寺社奉行松平輝和が、寛政3年(1791)11月15日、文書をもって
「東国惣司ト称シ候濫觴
(註・らんしょう=物事のはじまり)」、つまり

東国惣司 と称していることがこの問題の始まり と老中松平定信に進達していたのである。
(註・読み方;東国=とうごく、惣司=そうつかさ)

これは王子稲荷が「関東稲荷惣司」との源頼義の文言を

「東国稲荷惣司」と平安時代以来自認し喧伝してきたことのまさに証である。

なお、現在の北区豊島は鎌倉御家人であった豊島清元の本拠地であったわけだが、子清重は葛西清重と姓を変えて奥州総奉行となって葛西氏は奥州での大族となった。こういうことからも豊島氏産土(うぶすな)神地としての王子の王子稲荷が東国総司を名乗る支えがあったという見方もできる。


・江戸幕府の王子稲荷神社調査記録つまり「進達文書」は、

王子と狐の民話が平安時代以来連綿と

「東国三十三ケ国からの狐集合」

と伝えられて来ていたものだったことの

証拠を残したことになる。


この後年に出された十方庵敬順の「遊歴雑記」文化11年(1814)刊では王子稲荷を紹介するに『関八州の稲荷司』となっている。明らかに 伝承が変えられたことが見てとれる。

なお、浅井了意の「江戸名所記」寛文2年(1662)の『関八州の狐ども』記述は、金輪寺が「東国総司」を喧伝していた時期のもので寛政事件の以前のものであるので、平安時代、源頼義の王子稲荷への「関東稲荷の総司」言を「関八州」と捉えたものとして理解しておきたい。なによりも、幕府役人の「進達文書」の方が現実の状況だったのである。

[ 出典 ]
・「若一(にゃくいち)王子縁起」
・東京都北区教育委員会刊 「若一王子縁起」絵巻 ( 別冊解説編 共 )
[ 関連項目 ]
・  王子稲荷神社
・  王子神社
・ 王子の装束稲荷
[ 参考リンク ]
・  王子・狐の行列の会
・  広重「王子装束ゑの木大晦日の狐火」の不思議
・  " 東国三十三ヶ国 " の記述例 ・@ 秤座(はかりざ)

「江戸の秤座は守随(しゅずい)家が東国三十三か国を、京都の秤座は、神(じん)家が西国三十三か国を管轄」
・  " 東国三十三ヶ国 " の記述例 ・A ウィキペディア
「 出羽三山 = 東国三十三ヶ国総鎮守 」 王子稲荷の場合は " 東国・稲荷の・総司 " である。
・  " 東国三十三ヶ国 " の記述例 ・B 御伽草子『弁慶物語』
( 御伽草子『弁慶物語』は室町中期には作られていたものと考えることができる。)
「・・・義経を鎌倉に据え、東国三十三カ国を源氏の知行とし、西国三十三カ国を平家の知行としてはどうか。・・・」


絵巻の付箋
「以下の画毎年十二月晦日の夜関東(くどいようだが、関東は東国の意味でつかわれている)三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る図な梨(り)、 此の松は同夜狐集まりて装束素(す)とつた(伝)ふ故に衣装畠又は装束場といふ」
「三拾三ケ国の狐」との付箋

リンク ・

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