王子の狐物語・正しい王子の歴史のために


タイトル

狐の行列。王子の狐物語。 正しい王子の歴史のために。―― 東国三十三ケ国の狐が王子に集合 ――王子の狐の行列の背景をご案内しましょう。 王子の狐は東日本中から集ると物語れていた。それが関当地方から集ると作り変えらてしまった。 この誤り伝えられてしまった歴史背景にせまる。これからは、かつての豊かな民話をとりもどしましょう。

[ 芸能 ] 王子稲荷神社の 狐おどり
2019 平成31年3月24日(日)
東京都民俗芸能大会( 池袋・芸術劇場 )舞台参加

広重の浮世絵名画「王子装束ゑの木大晦日之狐火」をさかのぼること、200年も前、 狩野派の絵師狩野尚信が王子の狐の絵をすでに画いていたのです。

広重の「装束ゑの木」の絵に触発された形で「王子・狐の行列」が始まりました。 いま改めて王子の狐の歴史を考えます。

王子・狐の行列行事誕生のきっかけとなったのは歌川広重の浮世絵でした。

広重の浮世絵のロマンを現代に現そうと 王子・狐の行列の会は装束稲荷を出発して王子稲荷神社に向かう「 除夜詣で狐の行列 」 を行っています。

広重は晩年1857年(安政4)、最高傑作「名所江戸百景、王子装束ゑの木大晦日之狐火」を発表しました。
じつは、広重名画をさかのぼること、200年も前、狩野派の絵師狩野尚信が王子の狐の絵をすでに画いていたのです。それが下の絵です。 江戸時代の初期にすでに王子に狐集合伝説があった ことを示す貴重な証拠です。

王子の狐火・・・『若一王子縁起』狩野尚信絵(寛永十八年、1641)、 王子に狐集合の場面(部分)
王子に狐集合(全)

王子に狐集合(部分)
狩野尚信絵

広重の絵より200年も前に描かれた王子の狐の絵です。
この当時は榎木ではなく松の木でした。
補注.....
なお、大田南畝は『ひともと草』に「 むかしは装束松といひしも、今はいつしか榎にかはれり 」と書いている。



春日の局の実兄、斉藤利宗が加賀前田藩の重臣として王子の傍に居たこともあって王子に深く関心を寄せていたと思われる徳川家光は、新社殿造営にかかわる周辺の文化環境の調査の中で王子の狐火の調査を役人にさせていたのです。

広重の絵よりも200年も前のことでした!...以下がその経緯記録です。

「毎年十二月晦日の夜、諸方の狐、火燈して来る、御徒目付、狐火御検分の為之を遣わせらる由」。

狐伝承を役人を行かせて調べさせた、というものです。
この調査を経て寛永18年(1641) 絵巻 「若一王子縁起」 の中に、

「毎年おぼろづく夜、諸方の命婦(註・狐のこと)そのともせる火の山中につらなりつづける事、そくはくの松明をならぶるがごとく」

という説明を付けられて描かれた上の絵がそれなのです。



王子のきつね火
岸村が王子村と名をかえたころのとおいとおいむかしから、狐がどこからともなくあつまってきて 王子いなり(稲荷)へぎょうれつ(行列)する、今でもふしぎふしぎなおはなし(話)です。

むかしむかしの大昔、うみべ(海辺)が荒川とまぎらっていたころ、

王子村の近くの古いふるーい大きな木のあたりに、 たくさんの狐火が見えました。

狐火は、とくにおおみそか(大晦日)のばん(晩)におおくあらわれ、それが王子いなりさまへむかうのでした。

村の人々はゆらゆらゆれるふしぎな色をした狐火がなんだかとてもおそれ多かったので、

だーれもそばまでたしかめに行くゆうき(勇気)のあるものはいませんでした。

そうしたあるときのこと、村人たちは、みなではなしあって、だいひょうを三人えらんで、

狐火のそばまで行って見てみようということになりました。

いちばん狐火のあらわれる、さむ(寒)いさむーい大みそかのばん(晩)のことでした。

村人のだいひょうたちが、か(枯)れ草をかぶってイキをこらして遠くで見ていると、

どこからともなく、人のようでもありケモノのようでもある声がささやくように聞こえてきました。

「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」
「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」

しずかに きいていると、おさえるような声が、いくえ(幾重)にもいくえにもかさなって、それはそれは たいそうな数の声であるとわかりました。

「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」
「三十三国ねがいをもって、おうじいなりにもうづべし」

そしておどろくほどたくさんの狐火が集まってきて、大きな木のそばまで来ると、ふしぎふしぎ、 狐たちは身じたくをととのえたすがたに、つぎからつぎから変わっていくのでした。

すべての狐がしょうぞく(装束)をととのえた姿になったときのことです。

いっぴきの白い狐が前にあらわれて、ゆっくり王子いなり(稲荷)さまに向って歩みはじめると、 すべての狐たちも列をつくってしたがって行ったのです。

こだかい(小高い)おか(岡)にある、いなりさまへむかうみち(道)は、 ゆれる 狐火 で、いっぱいになりました。

この年の狐火はとくにいつもよりもおおくありました。

つぎの年、村むらは、それはそれはゆたかな実りと、 あらそい(争い)やわざわい(災い)の無い良い年となりました。

村むらの人びとは、はなしあって、王子いなりさまのかたわらに、 王子いなりさまをおまもりしていただくために、白狐のお宮をたて、 狐たちがへんしん(変身)したところの大きな木を装束(しょうぞく)の木と名づけ、 小さなおいなりさまをそこにおいてお守りすることにしたのでした。

狐たちがもっともっとあつまってくれて、村むらがゆたかな実りにめぐまれますように、とのねがいからです。
・・・・・・・・・・・・・
いまも、おおみそかになると、狐火のぎょうれつ(行列)が見られるそうです。

(「王子のきつね火」 作・高木基雄 )
王子の狐集合(部分)狐火
↑狩野尚信絵・部分その2、狐火

白狐神社
江戸後期の絵

王子稲荷へのお狐は東国33国の使者。

「関東」を現代の「関東地方」として王子稲荷社と狐火のことを記述されるホームページを沢山お見受けします、 がそれはちがうのです。

王子稲荷が関東総司伝承をいうとき、その関東とは平安時代の関東、つまり
東国 のことなのです。
古来よりの奥深い狐火伝承をみんなで護ってまいりましょう。

「関八州」からの狐集合、という「江戸砂子」等々の伝聞は王子の古伝承を正しく伝えるものではありません。
以下にそのことをお話いたします。


王子稲荷神社社報

江戸時代の寛政三年(1791年)までは王子稲荷社が宣揚していた民話
「毎年十二月晦日の夜、諸方の狐、火燈して来る、三十三ケ国の稲荷の惣つかさなり、」
三十三国とは
近畿地方から見て東方にある地方=東国。

三十三国は、
東海道の15国---伊賀国、伊勢国、志摩国、尾張国、 三河国、遠江国、駿河国、伊豆国、甲斐国、 相模国、武蔵国、安房国、上総国、下総国、常陸国、
東山道の11国---近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、諏方国、上野国、下野国、陸奥国、石城国、 石背国、出羽国、
北陸道の7国---若狭国、越前国、加賀国、能登国、越中国、越後国、佐渡国、


このように王子稲荷の別当寺金輪寺の「三十三国」との伝承は、陸奥(むつ)をも含んでの平安時代の区分、「関東」=「東国」のことを言っていることがわかるのです。

「関東」の概念から王子稲荷の伝承を検証。

王子稲荷が、もっと古く 「 岸稲荷 」 と称していた平安時代に
源頼義から関東稲荷総司とあがめられていたという社伝からみると、 東日本におよぶ「総司」との認識はずっと江戸時代まで続いていたものだったことがわかるのです。
そのことをもう少し詳しく見ていきましょう。


王子稲荷の社伝によれば、
「康平年中、源頼義、奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司とあがむ」 と伝える。

康平年中は、平安時代後期、後冷泉天皇の御宇に,朝廷の勅命を受け,源頼義・義家公父子が陸奥の 安倍貞任を征伐すべく東征夷蝦人を平定した[前九年の役(1051〜1062)]時です。
此のときの「関東」は、畿内 [=中央 ] 以東、つまり奥州も含めて

「東国」三十三国のこと。
決して江戸時代の関八州という狭い範囲のことではありません。




古代の律令制で畿内を防御する目的で三関「律令三関(りつりょうさんげん)」が置かれた。

1:東海道鈴鹿関(鈴鹿峠)[三重県(旧伊勢国)北部]、
2:東山道不破関(関ヶ原)、
3:北陸道越前愛発関(あらちのせき)[愛発山]
[平安時代に越前愛発関が廃止され、代わりに近江国逢坂関が置かれて、逢坂関以西が 「関西」と認識されるようになった。]

三関から西を「関西」、 三関から東を「関東」と呼んだ。この当時、 関東は東国とほぼ同義であったのです。



14世紀中期に室町幕府が成立。鎌倉に鎌倉公方が置かれると、古代、坂東と呼ばれてきた相模国 ・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8か国と、伊豆国・甲斐国の 10か国が「関東」と認識されるようになった。
14世紀末に陸奥国・出羽国が鎌倉公方の管轄下となると、奥羽も「関東」とされる場合もあった。

徳川家康による江戸幕府の創始によって、三度「関東」概念に変化が生じることとなった。 幕府が置かれた江戸を防御する箱根関・小仏関・碓氷関より東の坂東8か国が、「関東」と呼ばれるようになった。
幕府の公式見解によれば奥羽も「関東」に含むとしていたが、「関八州」と呼ばれたように一般的には 旧来の坂東8か国のみが「関東」と認識されていた。

江戸時代の「関東」の概念はそのまま明治以降も継承され、現代の関東地方(茨城県・栃木県・群馬県 ・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県)へと至っている。




秋田市通町招福稲荷神社の伝承物語。(←クリック)

「招福稲荷は、東京都北区、王子稲荷の分霊であり、王子稲荷が本宮である。
招福稲荷の狐が大晦日の王子稲荷の参拝をするために、山の幸、海の幸、畑作物、果実など、その年 の秋に収穫された山海の珍味を持って旅に出る。羽州街道を招福狐が通ると村々の稲荷狐が見送り、 その狐火は遠くの里から見えたと言われる。
また、招福狐はその年々、王子への行列の道筋を変えて、その村々の繁栄と村人の長寿を祈念して 通ったと言われる。」

秋田は古代に「関東=東国」


話を元にもどしましょう。
寛政年間、寛政の改革のおりの思想・風俗統制の対象はここ王子稲荷神社にも及びました。
江戸時代の終わりの頃のことです。(1787年から1793年)

それまで王子稲荷神社の別当金輪寺が「関東三十三ケ国の狐が王子稲荷神社に参集し、この灯す狐火をもって翌年の作物の豊凶を占うことができる」といった神徳・霊験を宣揚してきたのを老中松平定信を中心とする江戸幕府は思想・風俗統制の対象として、 1793年、 「関東三十三ケ国」表記の額、幟を没収してしまったのです。 以降、「関東三十三ケ国」は観光案内誌や版画の上で出来なくなったのです。


王子稲荷にふりかかった社会的出来事、その証拠記録
-資料@--
-資料A--
・・・「 東国惣司ト称シ候濫觴 」

[ 古い民話の確証 ]
王子稲荷の社歴にある「関東」についての解釈は多々出来るが、王子稲荷はこれを東国三十三ケ国との認識だったことが「進達文書」の中にある次の文言により確証された。

「 東国惣司ト称シ候濫觴 」
とうごく そうつかさ と しょうしそうろう らんしょう

・すなわち、王子稲荷が自社について称していたことを寺社奉行松平輝和が、寛政3年11月15日、文書をもって
東国惣司ト称シ候濫觴 (註・らんしょう=物事のはじまり)、 即ち
『 王子稲荷が自分のことを 東国惣司 と称していることがこの問題の始まり 』 と老中松平定信に進達していたのである。
(註・読み方;東国=とうごく、惣司=そうつかさ)

これは王子稲荷が「関東稲荷惣司」との源頼義の文言を「東国稲荷惣司」と平安時代以来自認し喧伝してきたことのまさに証(あかし)である。

・幕府の王子稲荷神社調査記録つまり「進達文書」は、 王子と狐の民話が平安時代以来連綿と「東国三十三ケ国からの狐集合」と伝えられて来ていたものだった ことの証拠を残したことになる。

[ 民話が政治圧力でつぶされてしまった ]

こうした経緯で稲荷社の古来からの三十三ケ国伝承が民話の上でも語ることを禁じられてしまったのです。 それ以降、ひとびとは狭く「関東八ケ国」の狐、と言わされるようになったのでしょう。

広重が王子の狐を描いたのはこういうことの後の時代だったのでしたから、観光案内文は政治的意図で狭く 閉じ込められた範囲の「王子稲荷は関八州の総司」となったわけでしょう。ふるさと王子の歴史ロマンを求める「王子の狐」ファンとしてはとうてい承服できないことですね。


広重は、「王子装束ゑの木大晦日の狐火」で、
狐たちが稲荷の森からゑの木目指して群れて出てくる場面 (←クリック) をえがきました。
私個人的には、あれは王子稲荷社の歴史を知った広重が王子稲荷の民話の開放にひっかけて文芸開放を織り込んだ絵では、との思いがあります。

時は天保の改革から十数年後のことでした。
こういう意図がわかってしまっては当時オシマイでした。わからないように描く、そして今日まで実際だれにも感付かれることなく永い歳月が過ぎてきた。と私は思います。
ちなみに、天保の改革には、出版統制により浮世絵版元の蔦屋重三郎、洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、などが処罰されました。 天保の改革については「6.天保の改革」と検索してみて下さい。詳しく解説していらっしゃる方がいます。

王子稲荷の別当金輪寺は、幕府命令に逆らってまでして、縁起絵巻に付箋をつけて「三拾三ケ国の狐」と言いつづけました。以下が今もその絵巻につけられてある付箋です(王子紙の博物館蔵)。

「三十三か国の狐、稲荷の社へ火を燈し来る」、と伝え、そして、それらの狐は装束場に集った、と言っています。


絵巻の付箋

「以下の画毎年十二月晦日の夜関東(くどいようだが、関東は東国の意味でつかわれている)三拾三ケ国の狐稲荷の社へ火を燈し来る図な梨(り)、此の松は同夜狐集まりて装束素(す)とつた(伝)ふ故に衣装畠又は装束場といふ」

(江戸時代の初期には、松の木に集ったと伝えています。 東京湾が今より近くまできていて、この辺に松が生育していたことが知られます。 その後に榎木に代わって「装束榎木」という伝承になったことがわかります。)

「三拾三ケ国の狐」との付箋

行政が町に王子の狐の案内文を掲示するようなときには、「関東」表記に注釈を加えて置くべきです。それが無いと、みな現代の関東地方一円から狐が集った、と理解してしまうのです。


2011.2.24、更新2013.12.31→ by @33koku メール: [ sky-8@outlook.jp ]
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