花しずめ のこと「熊野の有馬と東京王子」白きつねKotKot のこれまでのつぶやき

花しずめ のこと
「熊野の有馬と東京王子」@〜F 
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東京王子神社の寛永18年(1641)に成った縁起「若一王子縁起」を読み解くと つぎのことが分かった。

@ 王子神社には江戸時代よりも前と見られる時期に「花しずめ」の舞いがあった。
A 徳川家光の命で「若一王子縁起」の文をつくった林羅山(道春)は 日本書紀の熊野有馬の条の漢文体を縁起文の中に読みくだし文に変えていたことが判明した。
B それで、熊野有馬には花をもってまつる歌舞があるとし、それを「花しずめ」であろう、と解釈した。
林羅山(道春)は当時の幕府文教政策の最高責任者であったのでその見識はいい加減のものとは考えにくい。 (更新 2011.10.13)

なお、絵は詞書の趣旨にもとづき京都生まれの狩野尚信が江戸に下向していて描いた。 尚信は自らは王子神社の別当寺金輪寺に宿をとり幕府の調査官の下調査を踏まえて絵筆をとったとの記録がある。
日本書紀の記述通りのものかどうかは分からないが其地に「花窟祭礼図」なるものがあって烏帽子姿の者たちが 桜の花枝を持って舞う図が描かれてあるという。中に緋袴の者もいて女装かも、とsomakumaさんは指摘された。
王子の「花しずめ」も烏帽子姿の男たちが桜の花枝を持って舞っている。

以上から、有馬と王子との花の舞いは同系のものと判断される。




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「 熊野の有馬と東京王子 」@〜F  」 東京王子神社にあった「花しずめ」考察をツイッターにオン 2011.10.11了

ツイッター経緯

きっかけとなったのはsomakumaさんのツイート [ ・・花の窟神社例大祭・御綱掛け神事です。 ]


somakuma soma@kuma記 2011.10月10日
み熊野ねっとのおさんぽフォトアルバム、今年のスライドショーのソースにバグがあったので修正しました。 今までI.Eから観られなかった方、すみません。最新は花の窟神社例大祭・御綱掛け神事です。
http://www.mikumano.net/photo/index.html
33koku 王子の白きつねkotkot記 「熊野の有馬と東京王子」@〜F
33koku 王子の白きつねkotkot記 10月11日
@somakuma おまたせしました。東京王子神社の「若一(にゃくいち)王子縁起」絵巻の「花しずめ」部分 HPにまとめました。写真入れましたので是非ご覧いただきたく。
somakuma soma@kuma記 10月12日
@33koku 「若一王子縁起」絵巻の「花しずめ」のページ、画像等有難うございました。作業おつかれさまでした。 楽しげに、桜の枝を持って舞うんですね。「本熊野に有之由」ということで・・
33koku 王子の白きつねkotkot記 10月12日
@somakuma 熊野と東京王子の双方に新たに確認がとれました。これ、結構 ( 註:王子にとって ) 「歴史的快挙」 だったかもしれませんねえ。おかげさまでした。
somakuma soma@kuma記 10月12日
@33koku 歴史的な御縁ですね。こちらこそ、貴重な資料をご紹介頂き有難うございました。

参考資料: 花の窟( はなのいわや )神社 : 鎮座地 :三重県熊野市有馬町上地130
http://www.hananoiwaya.jp/
参考 : 平成21年9月8日から10月18日までの会期で開催の和歌山県立博物館の世界遺産登録5 周年記念特別展 「熊野三山の至宝―熊野信仰の祈りのかたち―」において 花窟祭礼図(熊野那智大社蔵) が初公開されてあった ことがメールでsomakumaさんよりお知らせあり、図は、赤幡の前で花枝を持った烏帽子の神職とおぼしき者らや緋袴の者もいて(女装かも、とsomakumaさんの指摘)花枝を手にし周りの大勢の祭員は楽器を持っていたとの記憶を伝えてこられた。

江戸期の『紀伊国名所図絵』によれば、花の窟祭礼について「神官はじめ村中の男女花を備うる。あたかも岳の如し。これ神代よりの習わしなりとあるが故に花の窟というなるべし。」とある。イザナミという女性を祭るに神道にのっとる祭であったから男女の参加があったのだろうか。

習俗の伝統は時代により宗旨の変遷の影響を受ける。仏教の影響が強くなれば、それまで男女でやっていたものも男 だけのものに変わるのだろうし。

王子の場合、田楽は僧侶によりおこなわれた。そのように王子の花しずめも仏事系のものとして行われたとすれば 男だけの舞だったと理解できる。


以下は下から上へとお読みください。
「熊野の有馬と東京王子」F (10.11 了)
江戸時代寛文記の出典はこの日本書記の引用と見られ寛永記の王子神社縁起も同じ引用と見られます。有馬の里に鎌倉時代に「花しずめ」がすでに無かったとすると王子神社にあった「花しずめ」は「芸能の示唆影響」での王子のオリジナルだったことに?


「熊野の有馬と東京王子」E
調べてみると 日本書紀に「花の窟」のことが「紀伊国 熊野の有馬村に葬(かく)しまつる 土俗(くにびと)此神の魂(みたま)を祭るには花の時に花を以って祭る  又鼓 吹幡旗(つづみふえはた)を用て歌い舞いて祭る」と書かれてあります。


「熊野の有馬と東京王子」D
ちなみに王子神社縁起に描かれてある「花しずめは」烏帽子を被った男たちが手に桜の花枝を持って踊っているもので愛知の花祭りのような鬼は居ません。


「熊野の有馬と東京王子」C
以上からすると有馬には「花しずめ」の舞があったことが確かなことになるのですが、いま「花しずめ」の消息はどうなのでしょうか?ご案内いただければ嬉しいのですが。よろしくおねがいいたします。


「熊野の有馬と東京王子」B
東京王子神社にこの伝承があるのは、鎌倉時代に東京の北半分から埼玉県南部まで300年以上治めた豊島氏の中心地がここ王子(熊野王子神勧請以来王子名)にあって王子神勧請の時代に学説では豊島系図の豊島有経は頼朝配下重臣で紀伊国三上庄の地頭。


「熊野の有馬と東京王子」A
「御縄掛け神事」の寛文記というのでしょうかに「(今は)歌舞はなけれども『以花祭又用鼓吹幡旗祭』といふ故実を存する事めづらしき祭事」と解説があります。東京王子神社に江戸初期まであった「花しずめ」と「御縄掛け神事」の昔の紹介との一致!


@somakuma 「熊野の有馬と東京王子」@
「紀州熊野の有馬の村におさめまつる熊野大神これなり、この神を祭るに春は花をもってまつり鼓うち笛ふき旗たててうたい舞いてまつる・・・花しずめのことなるべし」寛永18年(1641)徳川家光の命でつくられた東京王子神社の縁起の中の文です。



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